森みわさん(建築家)

設計事務所とともに、建物の省エネ化を目指すパッシブハウス・ジャパンを運営している建築家の森さん。大学受験からドイツでの留学生活、そしてアイルランド時代にスタートした子育てと仕事の両立など、ざっくばらんにお話いただきました。建築のみならず、留学に興味のある方、デザインや工学に興味のある方、そしてキャリアと子育てを両立したいと考える女性に役立つ体験談が、びっしり詰まっています。
森さんは、まさに度胸の人ではあるのですが、その推進力は「誰も置き去りにしない世の中にしたい」という優しさ。本記事から、地球の裏側や、まだ見ぬ世代へ配慮する気持ちの大切さを感じ取っていただけたらと思います。

プロフィール

1977年3月 東京生まれ
横浜国立大学で建築を学んだ後、22歳でドイツの研究奨学金を受け、シュツットガルト工科大学に国費留学。都市計画学部でDiploma学位(修士に相当)を取得。現地の設計事務所にて東京ドイツ大使館新築プロジェクトの設計にかかわった後、27歳でアイルランド共和国に転職&移住。29歳で長男を出産以降、育児と仕事の両立に苦労しながらも、32才で帰国、一級建築士事務所キーアーキテクツと一般社団法人パッシブハウス・ジャパンを設立。
www.key-architects.com
www.passivehouse-japan.org

高校時代に建築を志し、大学卒業後はドイツの研究所へ

質問 建築家を目指した経緯を教えてください。

なりたい職業がイメージできていない高校時代に、まず文系か理系に選択が分かれますよね。自分は絶対に理系教科が得意ではあるものの、その先の職業となると想像がつかず、何がやりたいかよく考えました。絵を描いたりデッサンしたり、モノづくりが好きだったのですが、モノといっても料理や裁縫など、クリエイティブなことなら何でも好きで。具体的に考え続け、平坦なものよりは立体的な造形が好きだと気づきました。そしてプロダクトデザインという分野を知り、それの一番デカいのが建築だと。さらに建築士の資格を取っておけば将来何とかなるかな?と。

また、デザインの道に進もうと考え始めたとき、美大への進学も考えたのですが、当時父が脱サラして独立し、お金がないから国立大以外は無理だと、両親からの通達があったことも理由のひとつですね。国立の美大となると東京藝大となりますが、教授の好みで合否が分かれるギャンブルみたいな受験は危険だと。それなら、自分の得意な理系科目を使って、工学部の建築に進もうと考えました。高校生の時点で既にズルさがありましたね(笑)。


――高校生で進路を戦略的に考えられたこと自体がすごいですが、元は藝大志望だったのですね。

藝大受験から逃げた自分というのを、しばらく引きずっていましたよ。藝大に入れなくて一浪二浪とするよりも、理系の大学の建築学部に現役入学して、節約した時間で海外に留学してやる!と気持ちを切り替えました。

2018年設計、淡路島の斜面に建つ個人住宅のプレゼン模型。まさに建築は敷地も含めて三次元の造形である。

質問 大学生活はどうでしたか?

建築デザインの授業は楽しい反面、自分には合いませんでした。私は素材や色が大切だと思うのに、そこでは豆腐を切ったような真っ白で真四角の形を扱ってばかりで。
一方で、東京ドームの膜屋根の構造設計を担当した先生の、ケーブルネットの模型の美しさに見とれてしまい、自分は構造美が好きなことに気づきました。それで建築構造の研究室に進んだのですが、教授から「あなたは構造ではなく、デザインがしたいんでしょ?」と、南ドイツの大学の研究所を教えて貰いました。そこは建築の学生と土木の学生が一緒にデザインと構造の授業を受けるユニークな研究所で、本当に的確なアドバイスを頂きましたね。

それで、大学4年の夏にその研究所を訪ね、そこで客員研究員として滞在するための承諾を貰ってきました。実家にはお金がなく、私費留学は不可能でしたから、日本から年間20人が採用されるドイツ学術交流会の研究奨学金に応募し、幸運にもそこに滑り込むことができました。


――ドイツに留学するというのは難易度が高いかと。

第2外国語でドイツ語を学んでいたとはいえ、当時の私はドイツ語をほとんど喋れませんでした。選考面接は、本当にひどい有様でしたよ。面接官は日本人の先生5人とドイツ人の先生が1人で、もちろんドイツ語の回答を準備していきましたが、詰まってしまって全然話せず。そうしたら日本人の先生が、「日本語でもいいから、あなたがドイツで何をしたいのか伝えてくれ」と。そこで一気に日本語でまくし立てたら、「良くわかったから、そこに居るドイツ人の先生のために、次は英語で伝えてくれ」と。英語になると回答のクオリティが格段に落ちるので、半分泣きながら懸命に伝えましたね。そうしたら、ドイツ人の先生が私のプロフィールにある「趣味はヨット」というのを見て、「南ドイツには海がないよ」と。私はスイスとの国境にあるボーデン湖で、ヨットが盛んなことを知っていたので、「ボーデン湖がありますよ」と返したら、「あそこは風が強いから気をつけて」と笑ってくれました。
後になって分かったのは、自分だけ30分以上面接していて、他の応募者は15分も無かった。あそこで私に賭けてみようと先生方に思って貰えたことが、私の人生の転換期でしたね。

ドイツでキャリアをスタートさせる

質問 ドイツでの留学生活はどうでしたか?

中学からずっと習ってきた英語ならまだしも、ドイツ語は1から10まで数えることすら大変な状況(笑)。奨学金には4ヶ月間の語学研修もついてきたので、現地のドイツ語学校に通い、秋から大学の研究所に通いました。1年間の滞在では、研究らしいこともしましたが、たくさんの同世代の学生と交流があり、多くの刺激を受けました。そこで予定通り日本の大学院に戻るのではなく、ドイツでもっと学びたいという気持ちが強くなりました。

しかし、1年の奨学期間中は客員研究員という立場ですが、さらに大学に居残りたいと思ったら茨の道で。奨学金があれば、語学力が低くてもビザがある。正規の学生になるには語学試験を受け、外国人として大学に入学する資格を得る必要があります。ドイツの大学は5年制なので、日本の大学で取得した単位を認めて貰い、さらに不足している分を履修して、Diploma(ディプロマ)という修士に相当する学位を取りました。
また、奨学金が切れたことで生活費を稼がなくてはなりませんから、昼は学校で勉強し、夕方からは設計事務所で模型を作るアルバイトをして、なんとか生計を立てました。

そういう生活を2年続け、もうじき卒業というタイミングで、アルバイトしていた設計事務所が、東京のドイツ大使館の設計コンペを勝ち取りました。それで、日本語が話せるスタッフも必要だという話になり、私に就職のオファーをくれました。


――アルバイトから正規のスタッフになったのですね。

本当にラッキーだったと思います。たまたまその事務所で日本のプロジェクトがあったから、EU圏外から来た私に労働ビザがおりて就職できましたが、EUにはEU圏内の失業者を優先させる仕組みがありますから、そのプロジェクトがなかったら私は雇われなかったと思います。

ドイツの設計事務所時代に携わった木造の学校建築を約10年の歳月を経て2019年に訪問。無塗装の外観は経年変化して独特の雰囲気を醸し出している。

質問 ドイツ大使館のプロジェクトは順調でしたか?

ドイツの事務所が設計コンペを獲っても、日本で設計する資格はありません。そのため国際的なプロジェクトでは、現地の設計事務所と組んで仕事を進めるのですが、このときは日本の最大手の事務所と組みました。
彼らはとても優秀で良心的な人達でしたが、あまりに設計の進め方がドイツと違うものだから、私のボスは疑心暗鬼になって日本側に対する悪口ばかりで、事務所の中もアンチ日本みたいな雰囲気になってしまいました。私はどちらの事情も分かるので、板挟みで辛かったですね。
そのようなこともあり、プロジェクトは2年で一段落したので、私もそろそろ次のステージに向かおうかと。

当時、日本語とドイツ語ならバイリンガルで仕事ができていたのですが、ドイツの外務省と私の事務所、そして日本の設計事務所が一堂に会すとなると、コミュニケーションは英語になりました。そうすると私は全くついていけず、国際プロジェクトをやりたければ、英語圏で実務経験を積まなければダメだと思い始めていたのです。


質問 英語力をつけるためにドイツを去ろうとしたのですか?

もう1つ理由があります。
当時、戸建て住宅なども設計していたのですが、設計事務所に依頼してくる施主は基本的に富裕層です。建築家からすれば願ったり叶ったりでしょうが、イタリアから素敵なタイルのサンプルを取り寄せて半日デザイン検討している自分が、馬鹿みたいに思えました。

それは、家を持てる人と持てない人がいることに気づき、難民やホームレス、風雨もしのげない状況にいる人たちのシェルターを作りたいと思ったのが、高校時代に建築を目指した一番の動機だったからです。そういう人たちは建築家に設計料など払えないわけで、自分の生業が成立しないことに葛藤していました。

それでどうしようかと考え、国連開発計画(UNDP)に就職しよう!と。慌てて調べたら、私が見つけたポストの応募資格が32歳以下で、あと数年しかないと。その上、私の日本語とドイツ語のスキルは全くポイントにならないのです、第二次世界大戦の敗戦国の言語だから。それで実務レベルで通用する英語を身に付ける必要性が生じました。

2023年のG7会合のために来日したドイツの国交大臣との意見交換会に出席。ドイツ語で建築分野の専門的な話が出来る人は少なく、特に女性であるため大使館から声がかかることが多い。

アイルランドで母親業との両立をスタート

質問 どこに行くことにしたのですか?

アイルランド共和国です。当時のアイルランドは空前のバブルで、ビザの要件が緩和される5つの職業のうちの1つが建築士で、急募していました。それでポートフォリオを送ったダブリンの設計事務所から直ぐにオファーを頂き、5年ほど働きました。

デザインも省エネも大切にしている事務所だったので、私がドイツで身につけた省エネのノウハウや人的ネットワークを活かすことができました。皆から重宝され、本当に楽しく仕事をしていたのですが、1年もしないうちに、当時のドイツ人のパートナーとの間で妊娠してしまうという想定外の事態が(笑)。

私はその1年でかなりキャリアアップしていたんですね。大きなプロジェクトのリーダーをさせて貰い、嬉しくて寝る間も惜しんで仕事をしていた時期でした。妊娠というアクシデントで自分が一番落ち込み、事務所の所長に謝ったんです。所長はアメリカ人の建築家でしたが、「素敵なことじゃない?だから罪悪感なんて必要ないよ」と。「とにかくなるべく早く仕事に戻るから」と私は宣言したのですが、「そういうことは今決められないし、決める必要もない」と諭されました。設計事務所の働き方というのは、世界中どこでもブラック。それなのに、そういう待遇をしてくれる雇用主の元にいたことは、不幸中の幸いでしたね。


――思わぬ妊娠により、仕事のペースを落とさざるを得なくなったのですね。

キャリアを終えるつもりも、母親になるつもりも、家庭を持つつもりもなかったので、28歳の私は、この世の終わりぐらいに思いましたね。それでも私はたまたま海外にいたから、保育園に預かって貰って、4ヶ月後には週3日のペースで職場復帰することができたのです。

当時の私には、他の人が100%なら、自分は150%のパフォーマンスを発揮しているという自負がありました。だから、一旦パフォーマンス0の戦力外になり、子育てをしながら30%という働き方になったとき、他の人の方が仕事が早いし、自分には大した仕事は回ってこないので、とにかく悔しかった。それでも、元の会社に戻れたのは、とにかくラッキーだったと思っています。
これは、将来子供を持ちたい全ての働く女性に伝えたいのですが、産後は自分が高いパフォーマンスを発揮していたときの職場に戻るのが、理想だと思うのです。この人はいまは子育てフェーズだけど、一段落すれば高いパフォーマンスが望めると、周囲が理解しているので。雇用側も、未知数の人を新たに雇うより、能力を知っている人に戻って貰う方がリスクが低い。だから女性は妊娠しても、勤めていた会社とは細くても繋がっていた方がいいと思います。


質問 その後は順調に復帰していったのですか?

そうですね。ただ、英語での実務経験は積んだけれども、国連就職の夢は妊娠出産でタイムアウトしてしまいました。数年前ですが、国連環境計画の理事に専門家として招いて頂いたので、最終的には達成できたのですけれども。
また、アイルランドのバブルはいつ崩壊してもおかしくないと言われていたので、日本に戻るきっかけを探し始めました。

それで自分の経験の中で、日本に持ち帰るには何が最適かと考え始めたら、省エネデザインしかないと。そこで省エネについてもっと本格的に勉強しようと、パッシブハウスのコンサルティングをしている設計事務所に転職し、そこで1年ほど働きました。

パッシブハウスは今も私が取り組んでいる建築で、季節ごとに窓からの日射をコントロールしながら、断熱材や、高性能な窓、熱を逃さない換気手法を導入して、徹底的にエネルギー効率を高めた建物のことです。転職先の事務所にはパッシブハウスをよく理解しているドイツ人の所員がいて、この方に多くを教えて貰ったのですが、途中で「もうあなたの質問は難しすぎて、自分には答えられないから、直接ドイツの研究所に聞け」と、サジを投げられました。そこから直接パッシブハウス研究所とのやりとりを始め、今に至ります。

独ダルムシュタットにて、パッシブハウス研究所のファイスト博士(写真左)と世界中から集まったメンバーとの定例会議に参加

エネルギー効率のよい建築を日本に持ち帰り起業

――省エネという付加価値を身につけ、帰国したのですね。

ヨーロッパは基本的に寒い気候ですが、日本は冬寒くても夏は蒸し暑い地域なので、パッシブハウスが日本に適応できるか、ずっと検討を重ねていました。そのような中、たまたま高校の同級生とやり取りをしていた際に、家を建てたいと相談を受けたのがきっかけで、日本でパッシブハウスを設計することになり、3人家族で移住してきました。

このとき、ドイツ人のパートナーは言葉の壁もあり、日本で仕事の当てがありませんでしたから、私が稼ぐ必要がありました。が、3歳児を連れてフルタイムで設計事務所で働くのは、日本では到底無理だと思い、育児と仕事を両立するには、起業するしかない!と。それで、自分は会社を立ち上げ、パートナーが家事と子守りをする生活が始まりました。

私は、古い体質の会社を変えようと多大な労力を使うよりも、楽に働ける新しい会社をさっさと自分で作る方がいいと思います。会社に依存せずに起業することが、これから若い人の間で主流になって欲しいなと思います。


質問 現在の仕事の内容を教えてください。

いまは2つの会社を運営していて、1つはパッシブハウス・ジャパンという非営利型の社団法人で、みんなで日本の建物を省エネにしていこう!という、普及啓蒙活動をする団体です。セミナーや見学会、デザイン賞などを通して、パッシブハウスの認知度を高め、多くの人に省エネルギーな建物を建てたいと思って貰えるように活動をしています。今では全国で250の設計事務所、工務店、メーカーなどが参加するネットワークとなりました。

もう1つはキーアーキテクツという建築設計事務所ですが、当然のことながら省エネとデザインと両立させることを常に心がけて、設計業務に取り組んでいます。また、ダブリン時代の所長への恩返しの気持ちもあり、働くお母さんに優しい会社でありたいと思っています。実際パッシブハウス・ジャパンもキーアーキテクツも、ほとんどのスタッフが子育て中の女性スタッフなのです。

今年で13年目となるパッシブハウスジャパンの活動は、全国の意識の高い実務者(設計者や施工者)によって支えられている

どちらが私の本業かというと難しいのですが、パッシブハウス・ジャパンでは、自分の設計事務所の実務で確立されたノウハウも教えているため、設計事務所としての活動は欠かせません。でも、パッシブハウス・ジャパンでの実績があるから、モデルハウスの設計などのBtoB(Business to Business、企業間取引のこと。Consumer消費者相手の場合はBtoC)の依頼がくることもあるので、互いを補い合っている形ですね。


――パッシブハウスを普及させるための両輪なのですね。

これからの建築は、当然デザインと省エネを両立させるべきだと考えているので、そうしたスタンスのデザイン事務所が増えていくことが嬉しいです。

それからパッシブハウスについては、海外との連携も楽しいですね。ドイツのみならず世界中で取り組みが進んでいるので、気候の近いオーストラリア、韓国・中国・台湾、カリフォルニアなど、自分にとって心強いネットワークができています。以前の自分は黒船のような扱いで、現状から変わりたくない人達から、「ドイツから持ち込んだ省エネ基準だからやり過ぎ」だの「コスパが悪い」だのと煙たがられていました。海外のメンバーは、多かれ少なかれ自国でそういう体験をしているので、言葉の壁を越えて連携しながら互いに支え合っています。

言葉の壁を越えるというのは、英検何級だとかTOEFL何点だとかではなく、自分の想いを相手に伝えるための意思疎通ができるということです。正しい文法である必要はなく、人と人が出会ったことで、何かが生まれ、何かが解決するということが大切だから、若い人たちには点数にこだわらず、取り組んで欲しいなと思いますね。

建築家という仕事

質問 建築家に必須の資格は何ですか?

私はドイツでの建築士の資格は持っていますが、日本での資格は持っていません。私の会社は日本の一級建築士事務所ですが、社員が1人でも資格を持っていればいいのです。
日本の一級建築士の資格とは足裏の米粒、つまり「取っても食えないが、取らないと気持ち悪い」と私の業界では言われています。まぁ、取った人が自虐で言うものなので、私のような無資格の立場が言うものではありませんが(笑)。

2017年竣工のパッシブタウン黒部の第三期街区では、リノベーションで築30年のRC造マンションを超省エネ建築に生まれ変わらせた。今現在でも全国から多くの視察者が訪れる。

質問 あると優位なスキルやキャラクターは?

想像力と、「世の中がこうなったらいいな」という夢を見る力
それから優しさですね。社会を良くしたいという気持ちや、誰も置き去りにしない感覚が大切だと思います。建築家は、施主の希望だからといって、隣に住む人が心を病むようなものを建てるわけにはいきません。私としてはさらに、その場にいる利害関係者全員がOKなら良いのではなくて、世界の裏側の海面上昇のことや、まだ見ぬ孫の世代の権利を考えられる力も備えていて欲しいですね。それは建築家だけではなく、どの職業においても同じです。

また、施主が「安くしろ、工期を短くしろ」と言ってこようが、建築家はプロジェクトの最高責任者ですから、大工さんが徹夜して疲弊し、現場監督さんが鬱になり、メーカーさんが買いたたかれて倒産し、ということは避けなければなりません。優しさとともに、度胸というか、施主に反論し交渉できる能力も必要ですね。


――度胸ですか。

私の場合は、省エネを謳うことにより、社会に対する配慮ができる依頼主をある程度フィルタリングできています。そしてヒアリングの時点で、エネルギー効率は求めるが、とにかく安く作ってくれという方には、そのような価値観を共有できそうなハウスメーカーを勧めて私は退散することも(笑)。

自分の利益しか考えられないモンスター施主が相手だと、スタッフがメンタルをやられてしまうリスクもありますから、やはり正面からNOと言える度胸が、建築家には一番大切かもしれません。加えて、建設工事では扱う金額も大きいですから、なおさら度胸は重要ですね。


質問 稼げますか?

儲かりませんが、食べてはいけます。先ほども言いましたが、周囲への気遣いができる人にはリピーターがあり、存続していくことができます。けれども、自分のことだけを考えていると、終わる商売ですね。

2023年竣工の森みわの自邸。これまでの自身の仕事の集大成であり、新しいチャレンジもふんだんに取り入れられた、メッセージ性の高い建築となった。

質問 今後の見通しについて教えてください。

まっさらな土地に新しいものを建てることを建築家の仕事と考えているならば、そのような職業はほとんどは無くなるでしょうね。今後は、既にあるものをどう活用するかという、リノベーションの仕事に置き換わっていきます。
日本の人口は減少していて、いまは建物の3軒に1軒が空き家だそうです。ボロボロでエネルギー効率も悪い箱モノをどうしようか?という問い合わせが、私のところにも寄せられます。新築であればデザイン提案の仕方が無限にあるけれども、リノベーションというのは制約が多く、デザインの難易度が高いです。

今まで建築家に向いていた人と、これからの建築家に向いている人は、私が思うに多分違ってくるんじゃないかと。デザインセンス以上に、人を束ねる力、コーディネーターとしての力が求められていくと思います。

森さんから、子ども達へのメッセージ

自らアウトプットする勇気を持ってください。
日常の色々な場面、例えば学校やメディアなどから、日々多くの情報が入ってくると思います。そうしたインプットの後には、自分なりの意見や疑問が生まれると思うので、それを必ずアウトプットして欲しいのです。感動でも反感でも、勇気を出して口にすれば、他の誰かに勇気を与えることになるのです。身近に発信することで、仲間が見つかり、小さな波紋が広がり、やがて大きなうねりになって社会は変わると思うのです。

あとは語学力を身につけて、言葉の壁を越えていって欲しいですね。日本社会とは異なり、世界はもっと優しさに包まれていることを、多くの子ども達に知ってもらえたら幸いです。


森さん、ありがとうございました!

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