大木敏晴さん(外国人材紹介および支援業)

現在、アジア各国で日本語学校を作りながら、外国人教育と人材紹介・支援業をしている大木さん。以前は貿易業で失敗し、いろいろと模索しながら事業を興してきた経験を、次代を担う子ども達に向けて惜しみなく伝えてくださりました。
そう書いてしまうと、暗くて辛い話のように想像してしまいますが、大木さんのキャラクターは明るく、とにかく前向き。思いついたら何でもやってみて、困難を乗り越えていく。「たまたま…」とか「運がよかった」とご本人は言いますが、実際のところ、それが長年にわたって実直に仕事をし、人を大切にしてきたからだとお話から伝わってきます。「とにかく、腐るな。今やっていることは必ず未来につながる。」と、何度も繰り返しておられました。
そんな大木さんの原動力は「愛」ですね。アジアの貧困を無くしたい、誰もが幸せに暮らして欲しいという思いが根底にあって、現在の事業拡大につながっているようでした。

プロフィール

1972年4月14日生まれ
広島県出身
大学卒業後、健康食品会社やコンサルタント会社を経て、29歳で友人と貿易会社設立。
36歳のときに別に貿易会社を設立し、40歳のときに失敗。
複数のアルバイトをしながら家族を養い、46歳のときに今の会社を設立。
株式会社H2Oキャリア:https://h2ocareer.com/

サラリーマンから貿易会社を起業する

質問 外国人材サービス業をされている大木さんですが、以前は貿易会社も起業されていたそうで、その経緯を教えてください。

僕は広島県の出身なのですが、中高の同級生がクラス会のために地元に戻ってきたときに、家に泊まってもらったのがきっかけですね。当時彼はサラリーマンをやりながら、ネパールでボランティアをしているという話をして。僕は地元で健康食品の会社に勤めていて、30歳までに独立し、中国で商売をやりたいという目標を持っていたので、一緒にやろうと意気投合しました。
それで彼が知り合いのコンサルタントに相談したところ、「中国は競争が激しいけれども、ネパールならニッチだから、良い商品をみつけて日本で売ってみたら?」と言われ、ネパールの貿易会社を二人で作りました

2002年当時は、ヒマラヤ岩塩を個人輸入している人はチラホラいましたが、本格的に輸入している会社はなかったので、そこに目を付けました。ヒマラヤ岩塩は、料理用やバスソルトとして売られていて、採れる場所は標高5,000mくらい。さすがにそこまでは行けないので(笑)、休憩地点の2,500mまで行き、そこに倉庫を作って本格的に輸入することにし、次第に通販や小売店やエステサロンなどにも採用されるようになりました。

友人はその会社をそのまま続けていますが、僕はその岩塩の会社を6年やった後、独立して別の貿易会社を作りました。


質問 今度はどちらで?

次はスリランカですね。
ココナッツオイルが流行った時期があるんですが、覚えていますか?立ち上げ当初は、ヌワラエリアという場所で紅茶の畑をやって輸入していましたが、トレンドを知っているバイヤーから、ココナッツオイルがこれからブームになるから準備しておけと言われたんです。その後、本当にブームが来て、スーパーからもバイヤーからも引き合いが増加して、かなり儲かりました

ところが半年ぐらいでカビが生えてしまって……。他社も9割方カビが生え、大手食品会社も新聞で全面謝罪広告を出すぐらい、大変な騒動になりました。うちの会社にも回収命令が出て、お客様には返金に次ぐ返金で、在庫の山を抱えてしまいました。

スリランカの紅茶畑には娘にちなんだ名前をつけました

――もともとカビが生えやすいオイルだったのですね。

水分が0.0何パーセント入っちゃうと、カビやすくなるのです。それは分かっていたので、工場には何度も足を運んで、湿気を寄せないようにしていたのですが……。そしてブームが終わって売れなくなってきていたこともあり、バイヤーからはカビが生えていないものまで引き上げろと。それで完全に会社が傾いてしまいました。

スリランカ自社ブランド紅茶

貿易会社での失敗からバイト生活、外国人材サービス業を起こすまで

質問 倒産したのですか?

その会社は現在、休眠中です。会社を畳んで、自己破産してしまえば良かったのですが、当時付き合いのあった何社かが、持ちこたえろと。少しずつでも返して復活したら、また取引すればよいと言われたんです。
それで、事業は継続して少しずつ返済し、それはいまも続いています。ずっと食品の貿易をやってきた人間なので、またやりたいなという気持ちで細々と続けてきました。


――いまだに返済が続いているのですね。

そうです。ココナッツオイルの失敗によって、家族を食べさせられなくなってしまい、コンビニ、ホテルでのベッドメーキング、警備員、病院の夜間受付……と、貿易会社を続けながらも沢山のアルバイトをしました。お客さんにもお金を返さないとなりませんからね。

そんな生活の中、夜間受付のバイトは暇ですから、このままバイト生活に埋もれてしまってはいけない、これからどんな事業を起こすか、何かヒントを探しださなくてはならない、と考え始めました。そこで、生まれてからこれまで何をしてきて、そのときにどんなことを考えていたか、長々と書き出してみたんです。すると、大学卒業したての頃に、外国人向けの商売をしたいと考え、留学生会館を回っていたことを思い出したんです。

タイ日本語学校の生徒たち

質問 そこから外国人材紹介業への転換を思いついたのですか?

貿易をやっていたので海外に行くことも多く、たまたまベトナムに行ったときに、お客さんに連れられて日本語学校に行ったんです。そこでは、二十歳そこそこの若者が、目を輝かせて日本語を勉強していて、日本を目指すアジアの子達はまだ多いのだな…と知りました。そして帰国時に、深夜のハノイ空港で飛行機を待っていると、技能実習生のグループがあちこちで、見送りに来た親御さん達と抱き合って泣いている姿を見ました。そのときに、何か彼らの手助けができないか……と思いましたね。

それが2018年で、当時の政権が、外国人材を増やしていかなければならないということで、特定技能ビザで外国人を労働者として正式に増やそうという方向になり、これだ!と思いました。

45歳を過ぎて、新しいことに挑戦することに不安はありましたが、嫁さんにも「あなたが今までやってきた商品やサービスの中で、一番いいと思う」と背中を押されました。そして、横浜中華街を散歩していたときに、ふと立ち寄った台湾の占い師のおばちゃんにも、「この仕事、あなた成功するアルヨ!」と言われたので、覚悟を決めましたね(笑)。

技能実習生たちの空港での見送り

質問 許認可などがあり、思い立ってすぐにやれる事業ではないように思いますが?

特定技能の外国人に対し、ビザ申請を代行したり就労や生活のサポートをしたりする、登録支援機関という政府の認定があるので、会社設立後に取得しました。

登録支援機関は全国で約1万社あり、行政書士で個人でやっている方も入っていますが、そのうち外国人を100人以上サポートしている会社は5%未満です。私達は今では150人ほどサポートしていますので、支援外国人の数としては多い方ですね。

日本で支援している外国人たち

質問 認定のハードルは高くはないのでしょうか?

ノウハウを持った人を責任者にするというルールがあり、外国人のサポートに2年以上携わったことがある人が必要でした。たまたま、日本に住んでいるベトナム人の知り合いがいて、組合で2年以上、相談にのったりした経験があったため、運よく認定を受けることができました。

毎年恒例のタイ日本語学校忘年会

外国人材紹介業の仕事

質問 仕事の具体的な内容について教えてください。

主にアジアから日本を目指す若者たちに対し、日本語やマナーなどを教育し、日本企業に紹介し、就労後の支援までを行っています。現時点では、タイとスリランカに日本語学校があり、今年はベトナム、ネパール、インドネシアに作っていく予定です。

タイほか各国の生徒たち

質問 支援の流れを教えてください。

まずは、日本の会社から求人票を貰います。求人票には、どのような人材が必要とか、雇用の条件などが書いてあります。次に、協力会社にその情報を流し、該当する人材を探してもらい、履歴書をみて面接をし、採用まで導きます。

次にビザ(入国許可証)の申請をするため、書類作成のお手伝いをして、代理で提出します。
許可が下りて就労が始まれば、そのサポートをしていきます。必要があれば市役所に同行したり、病院に付き添ったり、3ヶ月おきに入国管理局に報告義務がありますので、そのための書類を作成したりします。また、就業先を巡回して雇用主と人材の相談にのるのも、我々の活動内容になります。

ちなみに、コロナの時は海外から入国できなかったので、国内での転職を中心に事業を継続していましたね。


――やりがいのある仕事ですね。

そもそも外国に住んで働くこと自体、大変ですよね。わざわざ日本まで働きにきてくれる若い人をサポートするというのは、やりがいがあります。
彼らは一生懸命働いて親にお金を送っています。彼らが、よい会社に勤めて、日本を気に入って定住してくれて、それが日本の人手不足を解消できれば一番だなと思って働いています。

また日本の文化を知らないことで、トラブルになることもありますから、そういう面でのサポートも必要だなと思っています。

タイで支援する孤児院

質問 日本の文化ですか?

私の会社の顧客は、9割方が農家です。先日巡回したときに、冷凍庫に肉の塊をたくさん入れている子がいて、「どうしたの?」と聞いたら、「裏山に罠を仕込んでイノシシを獲りました」と。タイでは普通かもしれませんが、日本のルールをきちんと教えないと彼らにはわからないんです。
今後、日本には外国人が増えていくでしょう。私たちが彼らの文化を理解することはもちろん必要ですが、もっと大切なのは、彼らにしっかり日本語を学んでもらい、さらに日本の文化やルールを学んでもらうことで、日本人とのトラブルを未然に防ぐことが必要だと感じています。

しかし、海外の日本語学校の先生は、基本的に日本語を学んだ外国人が多いので、会話が足らずに説明しきれていない部分が多く、日本人がきちんとフォローして教える仕組みが必要です。
そんな中、今年の4月からは日本では日本語教師は国家資格になりましたので、これから日本人の日本語教師は増えていくと考えられます。
そこで私の会社では、海外の生徒と日本在住の日本人の先生を結んで、オンラインで授業を行うプラットフォームを作りました。これは日本語や英語などの語学、またビジネスマナーや多くの趣味など、世界中の先生からオンラインで学べるプラットフォームです。

失敗してもくさらないことが、必ず次につながっていく

質問 さらに事業の幅を広げているのですね。外国人向けのビジネスは、今後も稼げると思いますか?

今後10年アジアは成長していき、日本には外国人が増えていくので、ある程度は稼げると思っています。

日本における外国人向けのビジネスは、まだ少ないです。家賃保証の会社は増えていますが、外国人向けの通販は少ないですし。外国人は増えていて、市場としては大きくなっていくはずですが、いまは母国の調味料を個人輸入してFacebookで販売しているような小規模な商売が多いです。
そこで私は、在留外国人向けの通販サービスをやろうと準備しているところです。

タイの大学での説明会

――さらに一つ事業を広げようとしているのですね。

そうですね。先ほどお話した、ココナッツオイルで失敗して休眠状態だった貿易会社を利用して、やることを考えています。
外国人向けに食材を売るお店を、ちょうどいま千葉で開店するところです。そのための商品を現地から仕入れないといけないので、その流れで貿易会社が活きてくるんですね。いろいろとつながっているんです。

タイ日本語学校にてスタッフたちと

――失敗は成功のもととは言いますが、その通りですね。

僕は悲観的なったことがありません。コンビニでバイトをしていたときも、45歳で曲がりなりにも社長をやっている自分が、若い子にレジ打ちや品出しなど教えられることに、一瞬戸惑うこともありましたが、どうせやるなら吸収できるものは吸収し、何でも学んできました

実は、外国人材紹介業のつながりでモンゴルに行った際に、コンビニでバイトしたことがあると伝えたら、900の小売店が加入しているモンゴル小売業協会で先生をすることになり、今では理事になってしまいました。モンゴルは韓国のコンビニがたくさんあるのですが、その協会は日本式のやり方を実践したいということで、先生になって教えて欲しいと。僕はバイトをしただけなのに、モンゴルではコンビニ業の先生なんです。

人生、何があるかなんて分かりません。だから、何でも腐らずにやることです。自分がやっていることが将来本当に役に立つのか?と思うけど、必ず役に立ちます。人生進んだ先で振り返ってみると、学校の勉強だって、必ず役に立っていることが分かります。
もしあのココナッツオイルの事件がなければ、順調かもしれませんが細々と貿易会社を経営する人生だったと思います。あそこで負債を負ってしまったからこそ、今があるのです。
負債を背負ったからこそ、あの夜、病院のバイトの時に、自分の人生をもう一度見つめなおすことができました。見つめ直したからこそ、外国人の支援サービスを思いつくことができました。それを実行したことは、自分の人生で最良の決断だったと思います。


質問 負債を負ったときの不安は、どのように乗り越えたのでしょう?

一日一日、自分の気持ちを落ち着かせるのに必死でしたね。それでも、心のどこかで「どうにかなる」とは思っていました。死ななければ、諦めなければ、どうにかなるんですよ。

僕は、現在の外国人材紹介業というやりたい仕事をやるまでに、何十年もかかっている。それまでの仕事は、今考えるとその場しのぎだったんです。40歳を越えて本当の目標ができましたが、それは過去のつながりで生まれたものです。自分が60歳70歳になったときに何をしているか考えると、楽しみですね。

日本で支援するインドネシア人カップルの結婚式

運が開けるのにもワケがある

質問 日本語学校を各地に作っているというお話がありましたが、現地での許認可が必要ではありませんか?

もちろんありますよ。僕の場合は、たまたまタイで技能実習生を養成する会社をやっていた知り合いがいて、彼に話をしたら、「日本語学校を一緒にやりたい」と。そして教師を集め、タイの法律にそって設立を進めてくれました。その彼の義理のお母さんが公務員だったので、許可が下りやすいように校長になって貰いました。そのため、学校を作るのは難しくはなかったですね。

バングラデシュで支援する孤児院

――難しくないはずはありませんよ。運が良いとおっしゃいますが、それまでの事業や交流の積み重ねがあって、なるべくして運をつかんでいるのだと思います。

そうですね。僕は知り合った人に、自分のやりたいことや夢を語ったりします。最初は恥ずかしいですし、相手にもしてくれないですが、その中にも何かをやろうとしたときに協力してくれる人が出てきます。とても恵まれているなと思っています。

例えば、タイで技能実習生の送り出し機関のライセンスを取得するのに、タイ政府に対し1,800万円の保証金が必要でした。日本でも人材派遣業をするには2,000万円の資本金が必要なのですが、それと同じようなものですね。人材の派遣先が倒産しても、労働者の賃金を払える資力があることを証明しなければならないんです。
困っていたところ、うちのお客さんが「面白いビジネスはないか?」という話をしてきたので、この事業の話をしたところ「面白いですね。お金を出します」と言ってくれて。やはり、何事も前向きに続けていくことだと思います。


質問 仕事をしていて、あると優位なスキルやキャラクターはありますか?

自分は自分。人と比べずに、自分だけの色で勝負することが大切だと思いますね。

大木さんから、子ども達へのメッセージ

僕はYOASOBIの「群青」という歌がとても好きなんですが、まさにあの歌の歌詞にあります。
君が今やっていることは、決して無駄ではありません。
これから君が積み重ねたことが、君にしかない将来の武器になります。
だから、腐らずに、頑張ってください。
僕も自分にしか出せない色で、つらい時ももがきながら、朝も夜も走り続け、そして自分のやりたいことを見つけ出しました。
だから、誰とも比べない、自分だけの色で勝負してください。
好きなものを好きだと言う、恥ずかしくても夢を語る勇気を持ってください。
君なら、きっと大丈夫!あとは楽しむだけです。


大木さん、ありがとうございました!

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